シークレット・レース

シークレット・レース (小学館文庫)

シークレット・レース (小学館文庫)

厚い上にアマチュア時代から始まるのでどうなることかと思ったけど、ちょっと読んだらどんどん話は加速していき読むのが止まらなくなる。ぶあついけど一気に読める。そしてこれは傑作であった。感想があちこちにあるけど、自分が心に留めておこうと思い、ここの感想にも書かなくちゃと思った点は以下。

  • みんなやっていた、やらなくては勝てなかった
  • みんながやるドーピングは公平か
  • 組織の罪、ランスの悪質さ

みんなやっていた、やらなくては勝てなかった

プロになってレベルの違いを実感すると共に、「ここまで違いがあるのはおかしい」と思い始めるところは、分かる気がする。そしてその伝で言うと、あのプロトンの世界では誰がやってるかなど明白なのだろう。それでも口を閉ざしているのはみんなやってるってことであり、なんとも滑稽な姿だ。
ドーピングで10%もパフォーマンスが変わる世界ではやらずに勝つことは不可能であり、それはつまりドーピングするか勝てずに引退するかの二択しかないということである。そういう中でドーピングの善悪を簡単に語るのは難しいのもよく分かる。悪いことをしたのは認めるが自分だけが罰を受けるのは納得いかないというのも分かる。処罰することより全員で一斉にドーピングをやめることについての議論をした方が建設的だとは思う。いまでも発覚したり認めた選手だけを処罰するという方向になりがちなのは残念なことである。
クリーンな選手などいないという事実がすごい。プロになったような強い選手は100%やってる。集団についていくことさえできないからだ。

みんながやるドーピングならば公平といえるのでは?

本の最初の方(117p)でこの疑問が提議され、そして回答が掲載されている。引用するには長いが簡潔な記述で「ノー」と書かれている。
薬による効果は人それぞれである。効果のある選手とない選手がいる。検出できない新薬に効果が高く適正のある選手が、そうでない選手に勝つというルールが平等かということである。詳細は本文に譲るが、それよりだったら、自分はみんながどんな薬も使わずに競争した方が平等だと思う。自転車だけじゃなく薬を買う金も必要になるという点もあるし。

組織の罪、ランスの悪質さ

やらなきゃ勝てないような状況では無罪といえるのでは? 選手に選択肢はなかったのでは? そういう話もあるが、チームの監督が「チームにいたければドーピングをするんだ」と迫るのはまた話が違いすぎる。そして、USポスタルというチームのランスに関しては、選手が主導してチームメイトへのドーピングを指示し、断っていたら人事にも口を出し契約を切っていたのだから始末が悪い。
UCIに寄付をし、個人的な賄賂を送り、証人を脅し、援助の打ち切りをほのめかし、誰もやってない効果的なドーピングへの追求と、ライバルのドーピング情報リサーチへの情熱なら誰にも負けないというのは、ランスという人間の異常さと(語弊はあるが)哀れさを感じる。
全体に、組織そのものが腐ってしまった、麻薬犯罪と汚職警官とか、日本だと立法議員と天下り官僚とか、その辺と同じキナ臭さである。
やった行為があっても完全に悪いとは言えない。同情の余地もある。だが、罪悪感もなかったり、悪質すぎる人間もいることも事実だ。