娯楽小説と純文学の定義

きっかけは以下で,リンク先は純文学と娯楽小説のことじゃないんだけど,表題にあるようなことを語りたくなったのでここで書く。
定義論は定義するためにあるんじゃなく論ずるためにあるのです - WINDBIRD

エンターテイメント小説。そう思っていた時期が俺にもありました。エンターテイメントでない小説は純文学。では、純文学とエンターテイメントは両立できるかと言われれば、これは間違いなくできます。えらいひともゆってます

僕は生島治郎さんのエッセイを読んで純文学と娯楽小説という区分を強く意識するようになったんだけど,その後の色々な読書経験から,現在の自分の意見を書こうかなと思う。みなさんの参考になれば幸いです。
まず最初に,私がこの二つを対立する概念だと考えていることは明記しておく。定義次第で対立するものではないとみなすこともできることは分かっているが,私の中での定義はハッキリと対立していて,両立することはないということである。つまり,「のっぽ」と「ちび」,「長い」と「短い」くらいの反対語であると私がみなしているということである。この前提については,後ろでもう一度言及する。
その上で,二つを以下のように定義しています。

純文学
作者が自己表現のために書いた小説
娯楽小説
作者が読者を楽しませるために書いた小説

簡潔に書いたけど,実際には簡潔に書けるものではないので,以下に説明を書く。
まず,この二つの区分は作者が行うということである。読者が,この小説は純文学だ娯楽小説だと論じても,それは推測に過ぎないとする。その上で,読者が,「この作者はこの作品で自己表現をしたかったに違いない」「いや,読者を楽しませるために書いたに違いない」というようなことを考えるのは自由である。また,官能小説などはすべて娯楽小説だと考えていいと思うが,それでも作者が,「これは自分を理解してもらうために書いた小説である」と主張すれば,それは純文学である。読者にとってそれが娯楽小説のように見える,というだけのことだ。
また,この区分はジャンルや文体やストーリーによらない。先に言ったように,作者が書いたときの心情や動機・目的といった,下手をすると作者本人も説明できないような部分だけに依存している。だから,まったく同じ本でも,作者によってそれが純文学だったり娯楽小説だったりする。聖書や般若心経を写しただけでも,書いた人の心情次第で純文学にも娯楽小説にもなるだろう。
先に両立はしないと書いたが,いくつかの場面で両面が顔を出すということはあり得る。純文学でも最後まで読んでもらうために娯楽要素は含むかもしれないし,娯楽小説でも多少の自己主張は含まれるだろう。だけど,それらはあくまで要素であって,目的にとってかわるものではない。いくら娯楽要素をいれたとしても娯楽要素を入れた最終的な目的が自己表現であるならそれは純文学だ。娯楽小説における「テーマ」はエッセンスの一つにはなっても,そのためにその小説が書かれているわけではないから目的にはならない。目的が娯楽である以上,それは娯楽小説なのである。
ある本について,その作者がその本の目的を語ることはまずない。本に書いてあり,またそれが伝わらなくてはいけないものだからだ。だから,ある本が純文学か娯楽小説かを読者が決めるのは非常に難しい。おそらく,多数決でなんとなく決める以外にないと思う。また,作者本人も分からないということはある。対立する定義だと先に書いたが,作者がそれを意識していなければ,どちらのものなのかを正確に決めることはできない。誰かが作った棒を,それが長いのか短いのかを決めるようなものなのだ。作った人がこれは短い棒だと言ってくれれば一つ決着がつく。しかし,それでもある人にとっては長い棒に見えるだろう。作者が言っても譲れない基準であるということだ。また,作者が,短いか長いかなんて考えたこともなかったとなかったとすれば,それはもう答えの分からない観念的な命題になってしまう。
舌足らずな点もあると思うけど,私の純文学と娯楽小説についての考えはこんな感じ。